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カツラの葉っぱ 大好き!

カツラの葉っぱ 大好き!

何をおいても音楽を3

<De la musique avant toute chose!(何をおいても音楽を3)>  

なかなかいいフレーズなので Verlaineより借用して頁タイトルにしました。
歌について 気ままに集めます。

・(もういちど流行歌)「TOMORROW」
・フォークソングというブームがあった
・『海角七号』で日本語で歌われた「野ばら」
・あなたにシャンソンを(工事中)
・カラオケ、海を渡る
・アルプスの少女ハイジ
**********************************************************************
何をおいても音楽を2>目次
・1960年代の音楽シーン
・ケルトの旋律がいいですね
・佐渡祐さんのベルリンフィル指揮
・「釜山港へ帰れ」
・歌謡曲黄金時代
・あんたは偉い♪
・星の流れに
・刑期再延長
・個人的カラオケ集7
・70年代のシャンソン
・スウィングガールズ
・個人的カラオケ集6
・みっつの小さな音符

**********************************************************************
何をおいても音楽を1>目次
・パリの空の下
・今宵、フィッツジェラルド劇場で
・懐かしきロシヤ民謡
・愛しのクレメンタイン
・リリーマルレーン
・花はどこに行った?
・思い出の赤いヤッケ
・大統領閣下殿
・満鉄小唄/討匪行
・風の伝説テレサテン
・テレサテン 日本の心を歌う
・沖縄のグラシェラ・スサーナ
・♪涙 そうそう
・音楽は心のタイムマシーン
・65歳のジョーン・バエズ
・ドナドナの重い歴史
・枯葉
・さくらんぼの実る頃
・アイルランド民謡
・チャングムにはまいった!
・Imagine
・鄙ぶりの唄
二木紘三のうた物語
想い出の歌謡曲~You Tubeノスタルジア


<(もういちど流行歌)「TOMORROW」>
大使の新聞スクラップの一つに(もういちど流行歌)シリーズがあるのだが・・・
今回の岡本真夜「TOMORROW」がええでぇ♪ということで、紹介します。

2016/07/09
(もういちど流行歌)「TOMORROW」岡本真夜 たくさん泣いた人々に届いた
より
岡本

 1月17日の阪神淡路大震災、3月20日の地下鉄サリン事件。1995年、日本は年明けから災禍が続きました。心が凍りつく中、5月に発売されたのが「TOMORROW」でした。
   ♪   ♪
 打ちひしがれる人にとって、それは自身への応援歌のように聞こえた。

 「『涙の数だけ強くなれるよ』というフレーズは、会社の倒産などで失業し、必死に資格の勉強をしてたときにどれだけ励ましになったことか!」(東京、64歳女性)、「阪神淡路大震災のあと、毎日のように流れていた。今でも聞くたびに目の奥が熱くなる」(大阪、57歳男性)。

 高知の県立高校を卒業した岡本真夜さん(42)が、上京してから最初に作詞・作曲したのがこの曲だった。もともとは故郷の友だちを励ますために作ったという。「デビューまでのいろんな準備をしているとき、友だちが悩みを抱えていて……」

 21歳でデビューする3年前のこと。

 「電話だったり手紙だったりで話を聞いていたんですけど、すぐに帰ってあげることもできなくて。何か力になりたいって思ったときに生まれた楽曲です」

 「涙の数だけ強くなれる」と教えてくれたのは祖父だった。

 「家庭の事情で祖父母が両親代わりに育ててくれまして、卒業して上京することと、この業界に入ることを大反対されていて」

 反対を押し切って故郷を後にして数カ月後、祖父から手紙が届く。孫娘を励ます内容だった。

 「手紙の最後に『涙が多いのが人生なんだよ』と書いていてくれて、その最後の言葉がすごく胸に響いたというか……」

 デビュー後、数カ月はメディアに出なかった。当時は人前で歌うのが苦手だったので、「顔を出さずにデビューさせてくれ」と頼んでいたそうだ。

 キャンペーンはしないし取材も受けないから、スケジュールはがらがら。テレビドラマ「セカンド・チャンス」の主題歌になったこともあり、曲は発売から2ヶ月足らずでヒットチャート1位に駆け上がったが、本人の生活は地味だった。

 「バイトしようかな、なんて、バイト情報を集めてたりして。顔を出してないので、ばれてないし」

 オリコン集計の売り上げは最終的に177万枚を超え、翌年春の選抜高校野球大会の入場行進曲にも選ばれた。至る所で自分の曲が流れていたのに、当時はひとごと。「なんか自分じゃないような、そんな気持ちでずーっといました」

 デビュー15周年のとき、初の全国握手会をした。驚いたのは「TOMORROW」への人々の熱い思いだった。多くの人が涙ながらに「人生を変えてくれた曲だ」と話してくれた。

 読者アンケートにもこんなエピソードがあった。

 「重度の小児ぜんそくを患っていた私は、授業中や体育後に発作を起こすことがよくありました」と書くのは兵庫の27歳男性。「担任は保健室に連れて行ったり親に連絡をとったりしてくれました。ぜんそくの苦しさに加え、先生の優しさや自分への悔しさも相まって、先生の前で涙を流したこともありました」

 そんな時に先生が口ずさんでくれたのが「TOMORROW」だった。「『涙を流すのは弱いことじゃないんだよ』と教えられた記憶は、今も私の胸にしっかりと刻み込まれています」


紙のスクラップとWebデータとで、重複保管になるのだが、ま~いいか。



<フォークソングというブームがあった>
かつてフォークソングというブームがあった。
歌っている最中には、まさか一過性のブームで終わるとは思っていなかったな~。
ボブデュラン、ジョーンバエズ、ブラザーズフォア、PPM、ピートシーガー、高石友也、岡林信康などいたけど・・・・
後続が続かず、みごとに世界中の団塊世代のナツメロになってしまったな~。

歌のブームは25歳以下の世代がつくると言われるが…そのブームを次の世代が継ぐという保証は一切ないし、そんな義理もない!

PPM

でも・・・
TPPもとい!PPMの悲惨な戦争はどないだ♪
フォークソングのプロテストソングとしてのメッセージは不滅なはずである。

.Joan Baez Where Have All The Flowers Gone .
.七つの水仙 Seven Daffodils Brothers Four
.Pete Seeger - This Land is Your Land

おや 観衆のなかにカーク・ダグラス、ジョージ・ルーカス、オバマの顔が見えるやんけ。
心ならずも、アメリカ賛歌になっているが・・・・ま いいか♪


<『海角七号』で日本語で歌われた「野ばら」>
『海角七号』で印象的なのは、日本語で歌われた「野ばら」であるが・・・・

冒頭とラストで「野ばら」が日本語と中国語で歌われていて象徴的であるように・・・・日本が好意的に描かれた映画である。
確かにコミカルでほろりとしたところもあり見てて面白いが、これが台湾映画史上、歴代第一位のヒット作だって?
なぜ、この映画が台湾で受けるのか?ということの方が興味深いのです。


【海角七号/君想う、国境の南】
海角
ウェイ・ダーション監督、2008年台湾制作、H22年観賞

<goo映画解説>より
ミュージシャンの夢敗れ、台北から故郷の恒春に戻った青年アガは、郵便配達の仕事についたものの、無気力な日々を送っていた。そんな時、日本から中孝介を招いて行われる町おこしのライブに、前座バンドとして駆り出されることに。オーディションで集められたメンバーは寄せ集めで、練習もままならない状態。ひょんなことからマネージャーをする羽目になった日本人女性・友子とも、衝突してばかりだったが…。

<大使寸評>
台湾語と北京語の掛け合いの面白さは、日本人にとってはつんぼ桟敷でありわからないが、若しかしてそのあたりが台湾で受けた訳なのかもしれません。
監督は霧社事件の映画が作りたいのだが、スポンサーがつかないので、先ずこの長編第一作「海角7号」で実績を上げるつもりだったようです。
それが、歴代第一位のヒット作というがすごいですね。

goo映画海角七号/君想う、国境の南
海角七号 byドングリ


たまたま「中国・台湾・香港映画のなかの日本」という本を図書館で借りたのですが・・・
著者は日本語で歌われた歌に着目して中国・台湾映画を語っています。


【中国・台湾・香港映画のなかの日本】
台湾
林ひふみ著、 明治大学出版会、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
陳凱歌、張芸謀、侯孝賢、楊徳昌、王家衛…。中国、台湾、香港出身で、二〇世紀末の国際映画祭を席巻した監督たちは、いずれも戦後生まれながら、例外なく日中戦争のトラウマを作品に映し出していた。そして21世紀。中国の馮小剛、台湾の魏徳聖が生み出した記録的大ヒット作のクライマックスシーンで日本語の歌が流れ、観客の心を癒やした。日本と中国語圏の近現代史を映画によって読み直す。

<大使寸評>
この本では日本語で歌われた「野ばら」と「知床旅情」に着目して・・・・そこから日中の近現代史に触れながら中国、台湾、香港の映画を語るわけです。
大使が映画で読みとれなかった台湾の悲しみなんかが、この本でよくわかりました。(礼)
著者は香港特派員を経験した中国通とのことです。

Amazon中国・台湾・香港映画のなかの日本


この本の一部を紹介します。

<中国語映画に響く日本語の歌>p1~3
 2008年、中国と台湾で、それぞれ現地映画史上最大のヒット作となるフィルムが封切られた。特筆すべきは、そのどちらもが、日本に関わる内容をもち、映画の中で歌われる日本語の歌が、観客の深い感動を呼んだ事実である。
 
 台湾では魏徳聖監督の『海角七号-君想う、国境の南』。こちらは、台湾最南端の恒春半島を舞台とする音楽群像劇だ。1945年、敗戦とともに本土に引き揚げた日本人教師が、船の甲板で、恋人だった台湾人女生徒に宛てて書いた7通の手紙。当時投函されなかった手紙を入れた小包が、21世紀の台湾に届く。しかし宛先は植民地時代のもので、年老いた郵便配達員にも届けることができない。この宛先不明小包と、現地で日本人歌手のコンサートが開かれるにあたり急遽結成された前座バンドをめぐる物語だ。日本語で書かれた手紙が一通一通朗読されるため、これまで海外で製作された映画のうち、おっそらく最も多く日本語が聞かれる作品となった。そのクライマックス場面で、前座バンドの演奏が観客を熱狂させたあと、思いもかけず、シューベルト作品「野ばら」の日本語による大合唱が鳴り響く。ひとつひとつのパズルのピースを組み合わせるように、丹念に語られてきた物語が、この「野ばら」で予想を越えた大団円に結びつく感動は、言葉でいいあらわせないほどだ。




<あなたにシャンソンを> 工事中


60歳からのデビュー「あなたにシャンソンを」の出場者募集より
1. 開催趣旨
このイベントは、全国の熟年シャンソン・ファンの方々に、シャンソンの似合うまち “神戸” で熱唱・熱演していただこうという目的で、「アーバンリゾートフェア神戸 '93」が開催された平成5年に始まりました。また、シャンソンのもつ大衆性やファッション性などを盛り込み、歌う人にも聴く人にも、コンクールとは違った気軽さで楽しんでいただくことに主眼をおいています。
毎回、全国の60歳以上のシャンソン愛好家が神戸で一堂に会し、それぞれの人生を歌に託し熱いステージを展開しており、「日本アマチュア・シャンソンコンクール」とともに神戸の初夏の風物詩としてすっかり定着してきています。
このたび、当イベントの出場者を、下記のとおり募集します。

2.日時
平成24年7月17日(火曜) ・18日(水曜) 午後1時 開演予定(両日とも)

3.会場
舞子ビラ神戸・あじさいホール
神戸市垂水区東舞子町18番11号 (JR「舞子」駅下車、徒歩約10分)

4. 出場者募集要領
(1) 出場資格
平成24年7月1日現在で、年齢満60歳以上であること
アマチュアであること
(2) 募集人数
140組予定(70組×2日・多数時抽選)
(3) 応募方法
神戸市民文化振興財団本部(神戸文化ホール)、区民センター、勤労市民センター、区役所まちづくり課並びにインフォメーションセンター等で配布する「出場申込書」に、顔写真を貼付し、曲名、作詞・作曲者名ならびに住所、氏名、年齢等必要事項を明記のうえ、応募曲を録音したMDまたはカセットテープと楽譜を添えて、下記事務局へ送付してください。(なお、伴奏者同伴の場合は、カセットテープと楽譜は不要です。)
(4) 応募締切日
平成24年5月18日(金曜) 必着
(5) 参加費
7,000円(抽選の結果、出場を可とされた場合のみ必要)



60歳からのデビュー「あなたにシャンソンを」の出場者募集より
1. 開催趣旨
このイベントは、全国の熟年シャンソン・ファンの方々に、シャンソンの似合うまち “神戸” で熱唱・熱演していただこうという目的で、「アーバンリゾートフェア神戸 '93」が開催された平成5年に始まりました。また、シャンソンのもつ大衆性やファッション性などを盛り込み、歌う人にも聴く人にも、コンクールとは違った気軽さで楽しんでいただくことに主眼をおいています。
毎回、全国の60歳以上のシャンソン愛好家が神戸で一堂に会し、それぞれの人生を歌に託し熱いステージを展開しており、「日本アマチュア・シャンソンコンクール」とともに神戸の初夏の風物詩としてすっかり定着してきています。
このたび、当イベントの出場者を、下記のとおり募集します。

2.日時
平成24年7月17日(火曜) ・18日(水曜) 午後1時 開演予定(両日とも)

3.会場
舞子ビラ神戸・あじさいホール
神戸市垂水区東舞子町18番11号 (JR「舞子」駅下車、徒歩約10分)
4. 出場者募集要領
(1) 出場資格
平成24年7月1日現在で、年齢満60歳以上であること
アマチュアであること

(2) 募集人数
140組予定(70組×2日・多数時抽選)

(3) 応募方法
神戸市民文化振興財団本部(神戸文化ホール)、区民センター、勤労市民センター、区役所まちづくり課並びにインフォメーションセンター等で配布する「出場申込書」に、顔写真を貼付し、曲名、作詞・作曲者名ならびに住所、氏名、年齢等必要事項を明記のうえ、応募曲を録音したMDまたはカセットテープと楽譜を添えて、下記事務局へ送付してください。(なお、伴奏者同伴の場合は、カセットテープと楽譜は不要です。)

(4) 応募締切日
平成24年5月18日(金曜) 必着

(5) 参加費
7,000円(抽選の結果、出場を可とされた場合のみ必要)




<カラオケ、海を渡る>
 この本はあの探偵ナイトスプークの「アホ、バカ分布図」を海外に広げたような、渾身のフィールド・レポートになっているといえば褒めすぎか。
 今ではカラオケは海を渡り世界中に普及しているが、カラオケ黎明期にスナックで身銭をきって自意識と格闘していた大使にとっては、隔世の感を禁じ得ないのでおます。

 この本は1997年刊なので、その後のカラオケシーンは見えないのだが・・・カラオケはまだまだ進化をとげつつあるようです。
・・・ということで、カラオケ大好きの大使が、この本のエッセンスを紹介します。

「カラオケ、海を渡る」大竹昭子著、筑摩書房、1997年刊

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<プロローグ>p12~15
 中学高校はキリスト教系の音楽教育に熱心な学校で、クラス対抗の合唱コンクールがあったりと、歌を歌う機会は多かった。中学3年生のときは学園祭でミュージカル版「シンデレラ」の王子様役をやったりした。私は母ほど美声ではないが、声の通りはいいし、内心まんざらでもないと思っている。おいそれとはカラオケに行けないのは、この自意識がだいぶあるように思う。
 よくカラオケはストレス解消になるというが、この考えにも抵抗があり、書き手ならばそれを表現のエネルギーに転化すべきではないか、とまあ肩に力が入ったふうなことを考えるのだ。こんなふうにカラオケについてあれこれ言う私は、きっとつっぱりすぎに違いない。
 世間は私のこんな思いとは無関係のところで動き、進んでいく。いまや幼児から老人まであらゆる年齢層がカラオケを楽しんでいる時代である。盛り場に渦巻く音の種類を採集して歩いたら、カラオケの声が相当な割合を占めることだろう。とくに勤めている人にとっては、カラオケはアフターファイブに欠かせない場となっており、二次会ではかならずと言っていいほどカラオケに流れるという。
(中略)
 初期の頃はスナックやバーなどに置かれ、中年のサラリーマン層が酒を飲みながら歌うものだったが、カラオケボックスができてから酒を飲まないローティーンや女性に親しまれ、利用者層が一気に拡大した。
 カラオケは初めて、ふつうの生活者が酒抜きで人前で歌うことを可能にした。カラオケに出会わなければ、一生、声を出して歌う歓びを知らずに終わったかもしれない人々を、歌う側に引き込んだのである。歌う人と聴く人の境界はとりのぞかれ、聴き手と歌い手が随時入れ替わる環境が生みだされた。それまで聴かれる一方だった歌は、歌われるものに変った。プロに独占されていた歌がアマチュアにも開放されたのだった。
(中略)
 人はこんなに歌うことが好きだったのか!
 これはもはや日本人だけではなく、人類全体の謎なのだった。
 カラオケが生み出した歌の風景を求めてアジアを旅してみようと思う。どんな歌の空間が作りだされているのか、カラオケが浸透しやすい国と、しにくい国があるとしたら、その差はどこから生まれるのだろうか。さまざまな問いが心中に去来している。その答えを探しながら、歌うという根源に降りてみたいと思う。


<日本>p215~217
 関東の流しが伴奏屋になれなかったのは、自分が歌い手としての自負を持ちすぎていたのだろう。時代の流れが歌う方向に変わっても、おいそれと方向転換をできなかったのである。関西の人間は利に聡く、商売になると分かるとすぐに取り入れる合理性があるといわれるが、流しの形式にもそれが見て取れる。客が歌いたいならば、それに応えようというわけだった。この関西式流しの、歌いやすくアレンジして歌い手を心地よくさせることを、人に代わって機械にwさせたのが、カラオケというメディアだったのである。
 井上はバンド仲間6人で会社を起こし、カーステレオを改造し、自分たちで演奏した8トラックのカラオケテープを入れ、機械とセットで店にリースした。1972年のことである。
 ここで注目したいのは、ハードにカーステレオが利用されたということだ。カーステレオに使われるのは八つのトラックを持つカートリッジテープで、70年頃まで種類別テープ(8トラック、カセット、オープンリール)生産比の8割から9割を占めるほど生産量が多かった。曲を並列して入れられるので、直列に入っているカセットテープと違って曲の頭出しが簡単でエンドレスに再生できるところがカーステレオに向いていた。このテープの頭出しのしやすさがカラオケソフトにも利用されたのである。
 井上たちが作ったソフトは歌いやすいと評判だった。間もなく注文が増え、自分たちの演奏では間に合わず、レコード会社のオーケストラに依頼するようになった。そのとき「」と笑う。こんなにテンポを落としたら作曲家に失礼、ねばっこくて演奏できない、メロディー部を薄くすると聞こえない、などとさまざまな抗議の声が上がった。
 長年行ってきた伴奏演奏と要領がちがうことに、彼らが戸惑ったのも無理ないが、この当惑こそがカラオケ前史との分岐点だったと言えよう。カラオケはここからプロのテリトリーを離れて、アマチュアの領域に踏み出した。万人が歌える歌へと変身したのである。


<台湾>p28~45 
歌っている途中で歐洋がつっかえた。「台湾語でなんと発音するのか分からなくなっちゃった」と言って笑う。同じ単語でも公用語の北京語と発音がちがうからだ。言語別の歌の種類は多く、国語(北京語)、台湾語、広東語、英語、日本語がそろっていた。日本語の歌は予想以上に多かった。田舎のカラオケスナック以上かもしれない。アジアのどこの国でも受けるのはテレサ・テンの歌だと思い、日本語の歌詞をコピーして持ってきたが、その必要はなかった。日本語バージョンがちゃんと入っていた。
(中略)
 日本にカラオケボックスが登場したのは1985年、岡山にできたものが最初だと言われている。カラオケ喫茶をやっていた妻が事故で入院し、閉店しているあいだ、歌いたいという常連客のためにうどん屋を経営している夫が、トラックのコンテナを外してカラオケセットを入れ、店のとなりに置いて勝手に歌ってもらうようにしたという。
 また、同じ頃、滋賀県の高速道路インターチェンジの自動販売機コーナーにも、同じようなボックス型カラオケ空間があらわれた。このように、機械さえあれば無人で営業できるオートチェンジャーシステムによって日本のカラオケボックスは可能になったのである。同時期にパイオニアもボーリング場の一角で、待ち時間の利用を見込んでボックス状のカラオケをはじめた。
 KTVの前身である台湾のMTVは84年に始まっているから、個室型の娯楽空間という発想は日本より先んじていたわけである。それがカラオケのための空間になったのは80年代の終わりで、日本と同じ時期だ。日本のカラオケ関係者が台湾を真似たのかどうかは分からない。元祖探しがテーマではないので、その問いはひとまず置こう。
 注目したいのは、どちらも最初から大成功したことである。身内だけでくつろげる、マイクを他人に渡さずに済む空間を、双方とも求めていたということだ。個室という形式をもたなければ、日本でも台湾でもこれほどカラオケがブームになることはなかっただろうから、これは重要なターニングポイントではないだろうか。
(中略)
 70年代の後半、喫茶店がちらほらある程度だったこの通りに、初代の「カラオケ」が出来た。最初に二、三軒がカラオケセットを入れ、その店が繁盛したために瞬く間にその通りの店がみんな「カラオケ」になった。
 台湾で「カラオケ」と言えば、個室式でない広い場所で歌う店のことである。ビデオカラオケやレーザーカラオケはまだなく、8トラックテープの時代だった。
 コーヒーを出す喫茶店のような店もあれば、酒を出すスナックもあり、いずれも店内に小さなステージのようなものがしつらえられていた。店には歌えるママがいて、恥ずかしがり屋の客と一緒に歌ったり、デュエットをしてくれた。歌のうまいママがいるほどはやったのは言うまでもない。「上下拉OK」という文字はまだなくて、看板にはカタカナで「カラオケ」あるいは「歌唱」と書かれていた。
 林二(リンアール)が行っていたのはコーヒーを出す喫茶店タイプの店で、客はおもに50代以上の日本語ができる台湾人だった。日本人もいたが、隠居の身分の台湾人のほうが多く、昼間から歌いに来ていた。入っているのは日本の歌謡曲だけだった。
(中略)
サックスのけだるい音が消えて曲が終わると、客席からぱらぱらと拍手があがり、台湾語の会話が飛び交う。そのあいだにママはリクエストの紙を見ながら次のテープを探し出し、やがて歌本を手にした次の客が、少し照れた様子でステージに上がっていく・・・
 日本が去って30年以上たったのに、日本の懐メロを、かくも懐かしそうに歌っている老人たち。この台湾語と日本語と哀愁あるメロディーが入り混じった音空間こそ、海外に渡ったカラオケが最初に作りだした風景だった。台湾という土地に、アジアのどこより早くカラオケが渡った謎が、ここに隠されているように思われた。


<韓国>p147~162
 韓国のカラオケには、大まかに言って三種類あるという。ひとつは接待用の高級店、ふたつ目は「ノレバン」という日本でいうカラオケボックスのようなところ、もうひとつはふたつの中間にある居酒屋のような店で、ダンランチュージョム(団欒酒店)といい、個室とホールから成る。ノレバンとダンランチュージョムの違いは、前者では酒が出ないが、後者では飲みながら歌える点だ。ノレバンの料金は安く1時間約1万ウォン(1300円)で、利用者はほとんど学生。ダンランチュージョムのほうは料金が高めなので勤め人が多いという。ノレバンのノレは歌、バンは房ですなわち「歌の部屋」の意。チュージョムとは酒店で、ダンランとは団欒のことらしい。
(中略)
 日本でも1988年、パイオニアがヤング層へのカラオケ拡大をねらってボーリング場ヤゲームセンターに屋内型のカラオケボックスを設置したところ、ボーリングやゲームの人気を逆転させる珍現象が起きたが、同様なことが釜山でも見られたのである。
 9月になると釜山大学の周辺に個室式のカラオケ、ノレバンができはじめた。どの店も大変な盛況で順番待ちの列ができ、24時間営業でも客をさばき切れなかった。
(中略)
 このようにレノバンで大流行したのは、国産カラオケの価格がレーザーカラオケに比べて圧倒的に安かったことが大きい。末端価格はおよそ60万ウォン(約7万8千円)。本体だけで10万円以上し、加えてソフトが必要なレーザーカラオケに比べると、はるかに安価だった。千曲入っているレーザーカラオケに換算すれば約五分の一以下の値段である。こうして安い機械を使った破格料金のカラオケ店に、ティーンエイジャーがいちはやく群がったのだった。
 日本でもカラオケ層が拡大したのは、ボックスができてティーンエイジャーが行くようになってからである。若者のニーズに見合った場ができたときに、カラオケは夜の娯楽というイメージを脱して地上に躍り出た。
 と同時に、密室空間が非行の温床になるのではないかという懸念も生じた。日本ではドアをガラス張りにするのを義務づけるなど、大きな事故が起きる前にカラオケ業者が自主規制したが、韓国でもノレバンが広がるとともにそれを問題視する声が上がり、92年6月にノレバンを規制する法律が定められ、18歳未満の利用の禁止と、酒を出さないことが決められた。こうして、ノレバンは歌うのみの空間となったのである。

 
<カラオケよ、どこへ行く>p230~238
 またアジアに共通した問題として、カラオケと売春という組合せがあるのも印象に残った。カラオケが登場したてのころ、日本でもソープランドにカラオケが置かれたが、湯気で機械が壊れやすく定着しなかったと聞く。アジアでは個室式の風俗営業が認められていることが、カラオケと売春を接近しやすくしているようだ。台湾で見たように、部屋ごとに女性が付き、一緒に歌ったあと交渉が成立すればホテルに行くというパターンが多い。ベトナムにはカラオケラウンジにいるコンパニオンの女性を、番号札で指名して外に連れ出すというスタイルもあった。いずれにせよ、カラオケが売春のための偽装になっており、とくに中国とベトナムでは、それが社会問題化してカラオケの取締りが強化されていた。
(中略) 
 また欧米に目を移してみると、アジアとはまた違ったカラオケ・シーンが浮び上がってくる。向こうではみんなで一緒にカラオケを楽しもうとする傾向が強く、だれかがひとりで歌っていても、自分の知っている曲だと口ずさみ、最後には合唱になることが多いという。パイオニアには一時期、欧米でスターファクトリーという個室カラオケをやったが、3年くらいで撤退した。白人には個室にこもって歌うより、集まった人々と共に歌い騒ぐほうが肌に合っているのであろう。
(中略)
 カラオケは意識の奥に埋め込まれた歌う快楽を引き出し、テクノロジーを駆使して美しく虚構化するのに成功した。カラオケの陶酔が機械によって作り出されたフィクションであることに気付かない人はいないが、知っていてもなお夢中になるところに、機械制御の道具の呪術力があるのだ。カラオケが社会環境や時代状況を越えて世界に蔓延したのは、言うならばマシンに夢中になり、虚構に酔う人間の“どうしようもなさ”ゆえだったような気がしてならない。
 カラオケはこれからどこへ行くのか、多くの予想を超える事態に接したいまは、おいそれとは答えられなくなっている。ただ明らかなことは、パソコン通信、ケーブルテレビ、衛星チャンネル、光ファイバー、デジタルビデオディスクなど、ニューメディアが出ればかならずカラオケが付いてまわるということ、カラオケ機能の無いメディアはもはや考えられないということである。
(中略)
 ときおりふと、人類が破滅して廃墟となった地球に、ほかの星からだれか訪ねてきたら、何に一番首を傾げるだろうと考えることがある。ビルの中に作られた小部屋や、街の各所にあるデータベースや、家庭の居間にあるマイク付き機械などのカラオケの残骸に、頭を悩ますのではないか。もしそれが歌うための設備だと知ったら、彼らはいったい何を思うだろう。不気味な人たちだと恐れるだろうか。それとも滑稽な連中だと笑うだろうか。



この本には、以上に紹介した他に、香港、中国、ベトナム、沖縄のレポートもあるのですが・・・長くなるので割愛しています。興味のある人は本を読んでください。



<アルプスの少女ハイジ>
主題歌「おしえて」

くちぶえは なぜ
とおくまできこえるの
あのくもは なぜ
わたしをまってるの
おしえて おじいさん
おしえて おじいさん
おしえて アルムのもみの木よ

作詞:岸田衿子
作曲:渡辺岳夫
Heidi - Japanese Opening

アルプスの少女ハイジ


今回のbe「うたの旅人」は、待望の「アルプスの少女ハイジ」です♪
この歌の作詞、作曲の裏話など載っていて、大使にとって読みどころ満載になっています。


原作以上に丁寧に描写 アニメ「アルプスの少女ハイジ」より
スイス・マイエンフェルト市は人口2800人足らず、日本人の感覚では「村」と呼びたくなる市です。ここはヨハンナ・シュピーリが1880年に発表した児童文学『ハイジ』の舞台として知られます。マックス・ロイエナー市長(62)によると、それが地域の財産であると市民が自覚したのは日本人のお陰だそうです。1974年にアニメが放映されて以来、はるばる極東から足を運ぶ旅行者が急に増えたといいます。

 もしも、ハイジの故郷を訪ねる予定があるなら、アニメの第1話で予習することをお勧めします。だるまのように着ぶくれしたハイジが、デーテおばさんに連れられて、アルム(牧草地)のおじいさんの元に向かう道行きが、原作以上に丁寧に描かれています。温泉保養地のバートラガツからライン川を渡り、マイエンフェルト市街地を経てデルフリ村へ。そこまでのハイジの表情は暗いばかりです。顔が明るく輝き出すのは、山道に入り、自然を感じ始めてから。森を抜けると同時に、主題歌「おしえて」がかかり、ハイジは荷物を減らすために着させられていた服を1枚1枚脱ぎ捨て、牧草地を駆けていきます。

 アルプスの風景は、飛躍も誇張も超えるスケールだった。アニメのスタッフだけでなく、作曲家の故・渡辺岳夫さんも派遣された。「ドミソの音楽だな、これは」。パノラマの真ん中で、渡辺さんが漏らした言葉に演出の高畑さんは共感した。
 「ドミソを基礎とした西洋音楽の初心に帰るという意味だと受け止めました。渡辺さんは亡くなる前に、『ハイジ』が転機になったと書き残していますが、それだけの力があの大風景にはあった。」 


このアニメと、この歌がものすごく綿密な背景と準備によって生まれたことがわかりました。
とにかく、この歌は希望を喚起する歌だと、以前の日記にも書いたとおり・・・・
ものごとが快調な際には、この歌が頭の中を巡ります。

アルプスの少女ハイジ公式HP



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